思い入れ
- hanchuyuei2017
- 3月5日
- 読了時間: 2分
それを否定する作家も世の中にはいるが、執筆は、作家の辿ってきた道が反映されるものだ。経験がなければ書けない部分がある。その経験に才能や感性が加味され、上澄に知識や技術や題材への調査力などがある。下層から順に、経験、才能、感性、知識、技術、調査力、と、それらが多層的に混ざり合った結果言葉となり、物語となる。
そのような経緯で出来上がった言葉と物語の地層に、わたしの場合「思い入れ」という気体が乗っかる。「思い入れ」とは「思い出」になる前の状態のものだ。思い出が過去に基づくのならば、思い入れは「未来に経験するだろう感情」の意味でわたしはここで用いている。
例えば、イセガメかれを演じる福原冠が「きっとこの音で読むだろうな」と思いながらわたしは書く(書かされる)。すると本当にその通りの響きになったりする(インスタライブのアーカイブ参照)。あるいは「このシーンはきっと難解に思われるだろう」と思えばやはりそう受け止められることもある。未来にわたしはこの言葉をどう聞くだろう、俳優はどう読むだろう、観客はどう受け止めるだろう。あるいは「そう、なってほしい」。その想像や願いをわたしは「思い入れ」と呼んでいる。「思い入れ」は、地層の上を透明な気体のように覆い、ある時は時雨を降らせ、ある時は予期せぬ虹を架けたりし、作品全体の輪郭を絶えず有機的なものにする。
出来上がった作品は、生き物のように、時間とともに変化してゆく。思い入れがなければ、変化は鈍くなる。月の地層が静止しているのは、そこに気体がないからだ。一方、地球では風が吹き、雲が流れ、景色が変化し続けている。
わたしの作品に思い入れがなければ、変化は止むだろう。今作において「続編がある」という事実は、稽古や上演で積み重ねた「思い出」が、さらなる未来の経験にむかって手を伸ばす、ということを意味する。それは大いなる「思い入れ」だ。
「息あるところに風は吹く」
これは劇中のアクの決めゼリフだ。